松本翔の生い立ち
なぜ、アカ凸を立ち上げることにしたのか?
ここでは、この疑問に答えるべく、自身の生い立ちに触れつつ言及していきたいと思います。
ただの自分語りをしても面白くないので、「偽らざるホンネ」によるエピソードを中心に書き綴っていきます。
全部で4部作になっています。
かなり長いです。(大学生の卒論の平均文字数である20,000文字を余裕で超えます。。。)
なので、興味ある部分だけお読み頂ければ幸いです。(クリックやタップすると該当部分まで飛びます。)
それでは始めます。
「松本翔ver.1.0」時代(幼少期から会計士試験合格まで)
大人が嫌いだった子供時代
私は1981年に生まれました。
小学校時代から「群れること」が大嫌いでした。(これは今も変わっていません。)
だから友達はそんなに多くなかったですし、常に自分から一定の距離感を保つようにしていました。
何かに熱中している同級生を、少し客観的な対象として認識していました。
大人びていた、とも言えますし、生意気だった、とも言えます。
冷めていた、という表現が一番近いかもしれません。
そして、その当時から、大人が嫌いでもありました。
あれをしろ、これはするな、と教師や両親から言われていたことに、ことごとく反発していました。
偉そうに命令するほど、お前らは偉くないだろうが。
と、いつも思っていました。
当時は周囲から、「少し早い思春期が到来した、面倒臭いガキ」という認識で煙たがられていたと思います。
決して大人に従順で利口な子供ではなかったです。
その典型的なエピソードが中学1年生の時です。
私は、当時のクラス担任の男性教師が大嫌いでした。
なぜ嫌いだったかと言うと、人によって言っていることが違っていたからです。
生徒のAさんには、○○と言い、Bさんには、××と言い、学年主任のC先生には△△と言う。
この姿に心底、辟易としていましたし、「あぁ、こいつはバカなんだ。」と見下していました。
その姿勢が見透かされたのでしょう。
私は、そのクラス担任に目を付けられることになりました。
毎日、放課後に呼び出しをくらい、「なぜ、授業を聞かないんだ?」とか、「あの態度は何だ?」みたいな、不毛なやり取りが始まります。
次第に、「こいつの存在を無力化してやろう。」と思うようになりました。
私は勉強を頑張りました。
その結果、1年生2学期の数学Tと数学Aで学年1位の成績を取ることが出来ました。
クラス担任の授業は一切聞かずに、です。(若干、不登校で休んでいた時期もあります。)
お前の授業なんて、クソみたいな価値しかないんだから、受けなくても成績なんて取れる。
俺はお前を必要としていない。
という明確なまでのメッセージをクラス担任に発信してやったのです。
それ以降、クラス担任は私にあまり目を付けることはありませんでした。
スペシャリストへの興味
当時、若干13歳にして悟ったことが2つあります。それは、
・私はサラリーマンには絶対に向かないということ。(クラス担任が上司だと思うと、吐き気がします。)
・何か「力」があれば、鬱陶しい大人を黙らせることが出来るということ。
そして、この2つの悟りを応用することで、1つの道が見えてきました。それが、
大いなる力を持てば、サラリーマンの道は回避できるのではないか。
ということです。
サラリーマンなんて、スーツという名の奴隷服を着て、ネクタイという名の首輪を付けて、通勤電車という名の奴隷船に乗る社畜同然。
俺は絶対に、そんな人生はイヤだ。
と思う一方、紛うことなきサラリーマンの家庭環境で育った私には、どの「力」をつければ、今後到来するサラリーマンへの道を回避できるのか、を模索し続けていました。
当時、興味があった職業は、医者、薬剤師、気象予報士(理科も地学に関する学期末テストで学年1位になったことにより)でした。
少しずつ専門家に対する興味が湧いてきました。
松本翔からのコメント
当時はまだ公認会計士という職業の存在を知りませんでした。
スマホネイティブ世代からすると信じられないかもしれませんが、私が中学生の時は誰一人携帯電話を持っていませんでした。
何かをリサーチする術を持っていなかった時代ですので、情報のアクセス先が限られていました。
もしこの時に公認会計士の存在を知っていたら、この先の進路に少なからず影響を与えたことでしょう。
大きな挫折を経験した大学受験
高校時代は、理数系が得意だったという理由で理系コースに進学しました。
今にして思えば、ここが自分の人生の一つの転機だったように思います。
高校3年生の頃でした。
将来の職業選択を視野に入れた大学の学部選びに、私は混迷していました。
医者になりたいから、絶対に医学部!
と思えるほど、強く医者になりたいとの意志がありませんでした。
私大の医学部に行けないことなんて、火の車状態の家計の財政状態から不可能であることは理解していましたし、国立の医学部に行けるほどの勉強もしてきていません。
「現実的には難しいだろう。」というセルフイメージが先行し、自分の可能性を閉ざしていました。(もし、現在のマインドを有したまま、当時に戻れるのであれば、100%確実に挑戦していたと思います。)
同様の理由から薬剤師などの道も自ら閉ざしてしまいました。
そして、科学者や研究者の道に進みたいとも思えなかった私は、大学受験を直前に控えた3年生の12月に将来の可能性が広い文系学部への入学を目指して、このタイミングで文転することにしました。
浪人できる経済状況でもなく、東京の大学に進学できる経済状況でもなかったため、家から一番近かったという理由だけで関西大学(関西では、「関関同立」と呼ばれています。関東の「MARCH」と同レベルです。)の商学部に入学しました。
他の大学には、願書すら提出していませんでした。
大学受験を全うできなかった強烈な劣等感とともに、私はとても重要な3つのことに気付きました。それが、
・挑戦しなかったことに対する後悔は、挑戦して失敗することに対する後悔をはるかに上回るということ。
・将来やりたいことや、なりたい自分を見据えた上で、現在の行動を選択しないと非効率になるということ。
・自分や自分の子供たちの可能性の門戸を閉ざさないために、必要十分なお金を稼ぐ必要があるということ。
このことを固く誓って、私の大学生活はスタートしました。
松本翔からのコメント
ときどき、ふっと考えることがあります。
もし、高校時代からやり直せるとして、仮に東大レベルの大学や医学部に進学できたとして、果たして今以上のライフステージに到達できているだろうか、と。
投資から経済的自由を達成し、本当に好きな人に囲まれて、自由に好きなことを仕事にしているだろうか、と。
サラリーマン生活から解放され、嫌な上司からも解放され、通勤ラッシュとは無縁の生活を過ごしているだろうか、と。
もしかすると、人間の能力は「先天性」に基づく要素よりも、「環境」や「気づき」に基づく要素の方が大きいのかもしれません。
私は18歳で、上記のことに「気づき」、それらを実践するための「環境」を作り上げました。
その後、私の行動力や思考力は飛躍的に向上しました。
もしかすると、このサイトを訪れているあなたにも過去に劣等感を感じる経験や、或いは現在の閉鎖的な状況を打破したいとの想いがあるかもしれません。
私自身の実経験を通じて、あなたの「覚醒」に貢献できるのではないか。
これがアカ凸を立ち上げることにした理由の一つです。
さて、話を大学時代に戻します。
順風満帆だった簿記の受験時代
今でも印象に残っているのは、入学式当日のことです。
先ほどの「3つの誓い」を実践するために、私はスーツ姿のままFP(ファイナンシャルプランナー)の資格養成講座の申込に行きました。
受付の担当者の方はビックリしていました。
入学式の当日でもありましたし、大学1年生からFP資格の取得を志す意識の高さに驚嘆したのです。
「1年生でFPは少し早いと思うよ。」とのアドバイスを頂いたので、機が熟してから再度、受けることにしました。
帰ろうとすると、先ほどの担当者が「君はきっと将来なりたい職業に就けるよ。頑張って下さい。」との激励を受けました。
率直にすごく嬉しかったことを覚えています。
同時に、自分がこれから向かおう、これからやろうと思っていることに間違いがないことを確信しました。
私は、ファイナンスのリテラシーを高める前に、アカウンティングのリテラシーを高めることにしました。
それが、簿記3級です。
簿記の勉強はとても楽しかったです。
電卓を使って、貸借の金額がバチッと一致する喜びはどこかパズルのような爽快感もあり、勉強していて苦痛を感じることはありませんでした。
簿記3級の資格を1年生の6月に取得し、その年の11月に簿記2級を受験し100点満点で合格しました。
1年生の当時、私は下記のように思っていました。
大学受験までの勉強よりも、これからの勉強の方が価値があるだろう。
でも、それは絶対に口にしないようにしよう。
ただの言い訳になってしまうから。
在学中に、「この道一本で行く!」という将来の進路を決めて、プロフェッショナルになるための勉強だけに学生時代を費やそう。
そうすれば、後付けではあるけど大学に入ったことにも意味を見出せる。
このように考えていました。
松本翔からのコメント
今でこそ教育には3種類あることが分かります。
学問的教育 | 職業適性を知るための教育 | 大学入学まで |
専門的教育 | 職業に就く(=お金を稼ぐ)ための教育 | 大学入学以降 |
金銭的教育 | 経済リテラシーを高める(=お金を守ったり、増やす)ための教育 | 社会人以降 |
ここから、社会で立ち回るためには、専門的教育や金銭的教育が不可欠であることが分かります。
学問的教育だけでは社会では全く通用しません。
当時の私は、学問的教育に敗北感や劣等感を感じていたから、専門的教育の方に速やかにシフト出来たのではないかと思います。
怪我の功名というやつでしょうか。
「失敗から何を学び、次にどう活かしていくのか?」
これが本当に大切だと思います。
私はこのまま簿記1級の取得を目指すことにしました。
2級まで独学で勉強した私は、1級から大原簿記専門学校に通うことにしました。
大学受験は予備校に通っていませんでしたので、人生初めてのダブルスクールです。
通ってみて確信しました。
ここから先の高度な専門的資格(簿記1級、会計士、税理士等)には、予備校の利用が必要不可欠であるということを。
大原の先生の講義はめちゃくちゃ分かりやすかったです。
びっくりしました。
こんなに難しい論点なのに、ここまで分かりやすく説明してくれる先生っているんだなー、と素直に感服しました。
思えばこの時が、大学生活の中で一番楽しかったかも知れません。
本来の簿記の持つ楽しさに予備校で学ぶ楽しさが加わったことで、翌年1月から始めた簿記1級の学習生活はとても充実していました。
その甲斐もあって、2年生になった6月の簿記1級の試験に合格することが出来ました。
松本翔からのコメント
ちょうどその頃からでしょうか。
講師に対する興味が湧いてきたのは。
分かりやすく面白い講義を展開することって、誰も損をしないんですね。
受講生も学校もハッピーだし、講師自身のレーゾンデートル(存在意義)も見出せます。
強烈な自我を有していた自分にとって、「なりたい職業」を構成するほどにインパクトがありました。
いざ公認会計士の勉強へ!
さて、簿記1級に合格してから、本格的な職業選びが始まりました。
選択肢は4つほどありました。
@ 海外に留学をする。
A 英語を勉強してUSCPAの資格を取得する。
B 簿財を勉強して税理士の資格を取得する。
C 会計士の勉強をして、公認会計士の資格を取得する。
やはり、この時点でもサラリーマンになりたいという気持ちは微塵もありませんでした。
簿記1級を取得してから、気持ちの面で余裕が出来たことや全く行っていなかった大学の単位取得等もあり、勉強から若干離れる日々が続きました。
いずれの選択肢もお金がかかりますので、バイトにより今後の生計を立てていきました。
そして考え抜いた結果、最難関の会計士の資格にチャレンジすることを決断しました。
これが2年生の終わり頃です。
挑戦しなかったことに対する後悔は、挑戦して失敗することに対する後悔をはるかに上回る
私にはこの教訓があります。
同じ轍を踏むわけには行きません。
絶対にやってやる!
強い気持ちとモチベーションを持って、過去の自分を乗り越えるよう挑戦し続けました。
その結果、得意な簿記によるアドバンテージも相まって、勉強を開始した翌年5月の短答に合格することができました。
しかし、全てが順調に行くほど、人生は上手くはいかないものです。
人生最大の挫折と苦悩を経験
この5月の短答後、全く勉強が手につかなくなりました。
いわゆる「無目的症候群」に陥ってしまったのです。
初年度の受験を、「まずは短答合格」という思いで臨んでいたため、いざ論文の勉強を始めようと思っても頭がそれに上手く反応しないのです。
当時の会計士試験は短答が年に1度、5月にあり、論文が8月にあります。
短答の合格免除制度はありませんでしたので、論文不合格なら来年はまた短答からやり直しでした。
「心では千載一遇のチャンスなんだから、絶対にものにしなければ!」と思う反面、「頭では論文の勉強の事が考えられない」という精神的な葛藤に苛まれるようになりました。
自分から進んで始めた勉強で、ここまで辛くなるんなら止めておけば良かった。。。
そう思いながら、8月までの毎日を必死に生きていました。
体重は10kg以上激減し、夜が来るのが怖くて一人で泣いていました。
当時はすごく内向的で悩みを誰にも打ち明けられない性格だったので、本当に辛かったです。
簿記1級の合格までがトントン拍子に行き過ぎたんでしょうね。
私の目の前に大きな壁が立ちはだかりました。
壁というのは、できる人にしかやってこない。
超えられる可能性がある人にしかやってこない。
だから、壁がある時はチャンスだと思っている。
これは「イチロー」(野球選手)の名言です。
当時の私には、この壁をチャンスだと思える精神状態にはありませんでしたが、(今回の試験ではないけれど)超えられる可能性があることは理解していました。
大いなる試練とは、次なる新たなステージへの手招きだと私は思っています。
8月の論文試験は行くのも止めようかと思いましたが、短答合格者に与えられたせっかくの権利なので、行くだけ行ってみようと思い、丸3ヶ月全く勉強しないまま試験会場に向かいました。
恐らく、全受験生の中で1番勉強してなかったと思います。
松本翔からのコメント
今思い返しても、この3ヶ月間が間違いなく自分の人生で一番辛い時期でした。
監査法人での大変さも、独立の大変さも、起業の大変さも経験してきましたが、この3ヶ月の辛い時期を上回ることはありませんでした。
逆にこの3ヶ月の辛さがあったから、何でもできると思えるマインドが形成されたようにも思います。
会計士試験を通じて、本当にメンタルの部分で逞しくなったと思います。
日々是成長ですね。
論文試験の合格発表は11月にあるんですが、11月になってもまだ翌年の会計士受験に対するモチベーションは上がってきていませんでした。
当時は合格発表前から「合格を前提にした内定」が監査法人より出ていました。
合格見込みがないことは分かっていましたが、私には足りない社会経験の為、大阪の監査法人に面接に行き、内定を頂いていました。
合格発表当日は近畿財務局に見に行きました。
不合格をこの目で焼き付けて、翌年のモチベーションアップにしよう。
という不思議な心境だったことを覚えています。
当然、私の番号はそこにはありませんでした。
不合格を横目にカップルが2人とも合格し、ともに受験番号を指さしながら記念撮影をしている光景がとても印象的でした。
そんな状況を私は、ただぼーっと見ていました。
そしてその年の冬に、私は当時付き合っていた彼女と別れました。
いわゆる「失恋」です。
財務局で出会った「合格したカップル」とは対照的に、不合格となった私の元から彼女は離れていきました。
論文不合格になると、監査法人からの連絡は一切ありませんでした。
監査法人までも不合格となった私の元から離れていきました。
抗いようのない社会の現実を目の当たりにしました。
「これが社会に出て、生きていくことなのだ。」と、痛感しました。
22歳の精神的に未成熟な若者には、少々堪える厳冬の季節となりました。
思えば、幼少期から自我が強く、変なプライドだけは持ち合わせている割に、ここまでロクな結果も残せていません。
お金もない。
時間もない。
彼女もいない。
余裕もない。
何もない。
人生最悪でした。
次第に大阪での今の生活から、早く環境を変えたいと願うようになりました。
松本翔からのコメント
私には自暴自棄になる人の気持ちが分かります。
自殺したくなる人の気持ちが分かります。
本当にもう「どうでもいい」と思える状況を経験しているからです。
「諦めなければ何とかなるさ。」なんて楽観的なことはとても言えません。
一つだけ言えることがあるとするならば、
「やり返せ!!!」
ということです。
自暴自棄になる前に、やり残したことがあるはずです。
クソみたいなあいつらを見返してやればいい。
クソみたいな社会に叛逆してやればいい。
犯罪による復讐ではなく、自己の成長による復讐です。
成長してステージが上がったら、クソみたいだった「あいつら」や「社会」なんてどうでもよくなります。
眼中になくなるからです。
私はこれまでそうやってステージを上げてきました。
リベンジ、裏切り、そして・・・
すべてを無くした時、固く誓ったことが一つだけありました。それは、
人生における大事な局面では絶対に結果を出す!!!!!
ということです。
「窮鼠猫を噛む」、或いは「火事場の馬鹿力」よろしく、執念で翌年の5月短答と8月論文を駆け抜けていきました。
そして不合格から1年後の2004年11月8日、同じ場所で私は公認会計士の論文試験の合格を確認しました。
この1年間での精神的な成長やモチベーション維持の重要性などは、現在の私の講義にも色濃く反映されています。
同じような不遇な経験をしてきた人を応援したい!
これは、私が講師になる前から抱いてきた潜在的な想いでもあります。
そしてこの2004年から私の講師としてのキャリアがスタートすることになります。
合格した年、私は先述した大原簿記専門学校に通っていたのですが、実は合格発表前から講師をすることが決まっていました。
論文模試等の成績が良かったこともあって、簿記1級の時に指導して下さった大原の恩師(今でもそう思っています。)が、私に講師適性があると判断して、講師の道を勧めてくれました。
それを受けて、2004年9月から大原の会計士課で講師として内勤することが確定していました。
しかし、そんな心優しい恩師を私はいとも簡単に裏切ってしまいました。
合格発表後の2004年11月のことです。
LEC(東京リーガルマインド)から、東京で講師をしてみませんか?
との打診提案を頂いたのです。
良く言えば「ヘッドハンティング」というやつです。
悪く言えば「大阪から出るキッカケになるお声がけ」です。
その時の私の心境は、「大阪でのイヤな出来事を全て忘れて、一から東京でリスタートを切りたい。」というものでした。
決して大原の講師がイヤだったわけではありません。
ただし、これまでの大阪時代は自分に取って辛い経験そのものでした。
全く日の目を浴びない生活をし、大学受験で劣等感を感じ、会計士試験で不合格を経験し、失恋も経験しました。
合格を機に人生をやり直したい、と本気で思っていました。
だから、
LECで講師ができる、という喜びよりは、これを機に大阪を出れる!
という喜びの方が勝っていました。
私は東京に進出することを決断しました。
そして、せっかく頂いた恩を仇で返すような形で、私は大原を後にしました。
本当に最低な人間でした。
「大原を辞めて、LEC講師として東京で働きます。」
と泣きながら伝えた時も、恩師は決して怒ることはありませんでした。
自分のことしか考えられない未熟な私に「合格おめでとう。また飲みましょう。」との温かいメッセージを残してくれました。
他人の優しさと自分の愚かさを痛感した、23歳の秋のことでした。
この出来事は私の価値観を書き換えるには十分でした。
私にとても重要な気づきを与えてくれました。
仕事は自分のためにやるのではない。他人のためにやるのだ。
ということを。
恐らく、この出来事がなければ今でも勘違いしていたかも知れません。
何でも自分中心、自分さえ良ければ関係ない、とにかく自分にメリットがないとイヤだ。
こういった利己的で自分主体の考え方を180度転換しなければ、社会では立ち回れない。
仕事は誰かのニーズ(必要性)やウォンツ(欲求)を満たした対価として、代金を受け取る。
という、最も基本的かつ根本的な原理に気づくことができました。
自我の強さは小学校以来、相変わらずでしたが、この体験が「クライアントのために」とか「受講生のために」という他者を優先する価値観を形成する礎になったことは間違いありません。
松本翔からのコメント
「自分のために」はサラリーマンマインド。
「他人(クライアント)のために」はプロフェッショナルマインド。
他者に寛容的な「人としての器」を兼ね備えなければ、自己の成長によるバージョンアップはできません。
この大きな出来事が、自分のことしか考えられなかった「松本翔ver.1.0」時代から「松本翔ver.2.0」時代へとバージョンアップする、価値観のパラダイムシフトをもたらしてくれました。
「松本翔ver.2.0」時代(会計士試験合格から監査法人退職まで)
東京での新たなるチャレンジ!
2004年12月。
私は東京にいました。
大阪には色々なものを残し、そして色々なものを捨ててきました。
初めての一人暮らし、場所は麻布十番に住居を構えました。
麻布十番と言えば、今でこそ港区の3A(赤坂、青山、麻布)と呼ばれる超高級地です。
しかし、2000年に大江戸線が開通するまでは、陸の孤島と呼ばれていたこともあり、家賃もそこまで高くありませんでした。(間取りも1Kですし。)
2003年に開業した六本木ヒルズを徒歩圏内にして、私の新生活がスタートしました。
松本翔からのコメント
公認会計士になって人生を変えたいと思うあなたへ。
兵庫県の田舎から合格を機に上京し、東京の港区麻布十番へ。
合格すれば、生活環境は一変しますよ!
合格発表からの1ヶ月は、就職の内定、補習所の登録、引っ越し等、人生で一番ワクワクする期間が到来します。
これまでの努力の賜物です。
ご褒美は遠慮せずに受け取りましょう。
あの素晴らしい1ヶ月を是非とも味わって欲しいと思います!
楽しかったLEC講師時代
さて、2004年12月からLEC講師としての新しいキャリアが始まりました。
私が担当するのは、2005年3月から始まる1年間の入門講座です。
光栄なことに、私は全100回で財務会計論と管理会計論を指導する講座の全国収録講師になりました。
全国収録講師とは、教室の通学クラスで収録した講義をビデオで配信する、いわば「エース講師」を指します。
たった数ヶ月でしたが、大原時代の教え方を評価して頂けたことは嬉しかったです。
大原時代に、恩師の進言がなければ、講師として活躍することはなかったでしょうから、恩師との出会いは間違いなく人生のターニングポイントになりました。
やはり、大原には今でも感謝しても感謝しきれません。
私は2004年12月から2006年4月までLECの常勤講師として働いていました。
2005年3月から1年間担当させて頂いた計100回の講座は、準備に追われる日々でありました。
その頃から、オリジナルのレジュメを切って、受講生に提供していました。
自分が制作に関与していないテキストだけでは自分の伝えたい意図や想いが伝わらない。
そう考えていました。
だから、自己流のスタイルで講義を提供するというこだわりは、新米講師時代から全く変わらなかったです。
でも、しっかりと通学クラスから論文合格者を輩出しましたよ!
講師業はやりがいも多く、本当に楽しかったです。
しかし、常勤講師であるがゆえの大きな問題点がありました。
それが、実務経験が積めない、ということ。
会計士の場合、2年間の実務経験がないと、正式に公認会計士として登録することはできません。
これは、LECの常勤講師である限り、いつまでたっても公認会計士になれないということを意味します。
大阪時代の辛かった不遇をリセットし、東京でリスタートを切る、という理由で上京しています。
将来のビジョンや構想については、「講師をやりながら考えている」状態でした。
大学受験の失敗から自分が立てた3つの誓いの1つ。
将来やりたいことや、なりたい自分を見据えた上で、現在の行動を選択しないと非効率になる。
この誓いを自ら破る訳には行きませんでした。
1年間の入門講座を終了した2006年の3月に、私は考えました。
試験合格(2004年)から、最後の修了考査(2007年)までは3年ある。
今から実務につけば、2年間の実務要件についてはギリギリ満たせる。
この先、何かやりたいことが見つかった時に、公認会計士としていつでも動ける状態にしておこう。
そのためには、ここで実務について、2007年の修了考査の合格と公認会計士の登録を優先しよう。
講師業は天職だとは思うが、実務に触れてから講師に戻る機会があれば、よりパワーアップした状況で、受講生に経験談を話せる。
このように考えて、講師を一旦辞める決断をし、私は2006年4月にLECを退職しました。
いつか必ず帰ってくる。
そんな気持ちで講師業から離れることにしました。
松本翔からのコメント
今は不十分な状況でも、「こうなるなんだ!」という状況は自ら作り出せる。
「自分の可能性に懸ける」ということの本質的な意味をこの時、初めて理解しました。
今にして思えば、無意識下でこうなる(アカ凸を立ち上げて自分の理想の教材で講義をやりたい!)ことはある種、必然だったのかもしれません。
『思考は現実化する』(ナポレオン・ヒル著)とはまさに言い得て妙です。
KPMG時代に手にしたもの
私は2006年5月に中途入社であずさ監査法人の国際部(KPMG)に入りました。
KPMGに入った理由は大きく3つあります。
@ |
KPMGブランドに対する憧れがあったから。 |
A |
リクルーターをやっていた同期の紹介があったから。 |
B | 国際部なら、少し遅れた実務キャリアを取り戻せると考えたから。 |
@については、大阪での受験時代に1年先に合格した先輩がKPMGに入社していたことによる影響が大きかったです。
相当優秀な先輩でしたので、「あぁ、KPMGって意識とレベルの高い人が行くところなんだ。」という認識がありました。
だから、「あずさ」と言うよりは「KPMG」に対する憧れは強くありました。
注:KPMGというのは、あずさ監査法人と提携している世界最大規模の会計事務所です。
世界150ヶ国以上に事務所を有し、20万人以上の従業員を擁するグローバルアカウンティングファームです。
Aについて、当時リクルーターをやっていた同期が、5月というタイミングでも中途入社を斡旋してくれるとのことでした。
私からすれば、まさに願ったり叶ったりの状況でした。
Bについて、当時、「国際部の3年は国内部の5年と同等のキャリアが積める。」と言われていました。
US-GAAP(米国会計基準)やUS-SOX(米国の内部統制監査)など、先端な監査業務は国際部が筆頭となって担っていました。
LEC講師をしていた1年半分の遅れを取り戻すためには、国際部で実務経験を積むしかない、と私は思っていました。
入社してKPMGのレベルの高さに驚愕しました。
チームメンバー10名のうち、2名がTOEIC満点者ということもありました。
今にして思えば、ハイレベルな環境下で高い意識を持って実務に取り組めたのは、本当に自分自身の大いなる成長に繋がりました。
とは言え、1年目から監査法人ライフが順風満帆だった訳ではありません。
正直ぶっちゃけますと、入社してからの1年間は、グループの上司からの評価は高くありませんでした。
なぜなら仕事が遅かったからです。
なぜ仕事が遅かったのかと言うと、全ての監査手続や監査調書作成の意味や意図を自分なりに理解してからじゃないと作業に着手しないと決めていたからです。
前期の監査調書に類する手続きをやって、作業を終わらせることは早いですし、簡単でした。
私には、意図や目的や趣旨が不明なまま監査手続を行うことに意味を見出せませんでしたし、力が付いている実感を得ることが出来ませんでした。
なので、前期調書とは全く別の観点から、監査手続を自分で考えて作ったり、前期調書にはないドキュメントをオリジナルで作成していました。
だから色々怒られましたよ。
「余計なことはしなくても良い。」とか
「とにかく早く作業をやって。」とか
「お前はエクスキューズ(言い訳)が多い。」とか。
先輩からは散々言われましたけど、考え方は一切曲げませんでしたし、やり方は一切変えませんでした。(ここら辺が、私が組織に向かない理由です。)
この努力が報われだしたのが2年目からです。
1年目にしっかりと考えて苦労した分、2年目は意図も目的も趣旨も自分の言葉で説明できるようになっていました。
それにより、監査における処理速度や実務能力が飛躍的に向上しました。
更に大きかったのは自己流のスタイルに加えて先輩のやり方や考え方を真似し始めたことです。
私には、今でも尊敬してやまない年次が3つ上の先輩がいました。
大好きだったその先輩の一挙手一投足を模倣しました。
常に先輩を観察し、
・会話の進め方
・メールの文面
・交渉の仕方
・部下に対する教育
・監査調書の作成のタイミング
こういったものを毎回ノートにメモを取ってまとめていました。
監査自体のメモよりは、こういった「対人交渉力」に関するメモの方が多かったです。
優秀な先輩の思考法や行動様式をインストールしたことで、成長がさらに加速していきました。
結果、2008年10月にはシニアに昇格することができました。
入社してから、約2年半でのスピード昇格です。
松本翔からのコメント
監査法人からのキャリアパスを考えた時に、法人内で身につけるべきスキルはコミュニケーション能力とマネジメント能力だと思います。
監査自体のスキルにコミットしても汎用性は高くありません。(要は、転職等のマーケットで評価されません。)
それよりも、監査現場を上手くマネジメントしている先輩の方法を真似してみたり、インチャージ(注:現場責任者)としてクライアントと交渉することの方が価値があります。
現場をマネジメントする機会が入社2年〜3年次にインチャージとして訪れるのが監査法人の素晴らしいところです。
法人内には優れた先輩が必ずいるので、個人的には仕事ができて、プライベートが充実している(ここが重要!)2人の先輩を見つけることを推奨しています。
「年次が1つ上の先輩」と「年次が3つ〜5つ上の先輩」ぐらいがおススメです。
年次が高すぎると、見えているステージが違い過ぎて参考にならないことも多いからです。
その先輩をよく見て、観察して、盗めるところは盗む。
「学ぶ」の語源は「真似ぶ」です。
監査法人では、様々な業界のクライアントに関わることが出来ますし、担当する監査チームごとに上司が変わりますので、色々な先輩と仕事をする機会があります。
こういった環境は監査法人ならではです。
成長していく意欲があるかないかで、成長速度が全く異なります。
監査法人時代に感じていた違和感
シニアに昇格した2008年10月時点で、公認会計士としての登録は完了していました。
私には、そろそろ次の進路や方向性を定めていく必要がありました。
監査法人に残るのか、辞めるのかを。
2年から3年、監査実務を経験してみて分かったことがあります。それは、
監査はクライアントとの対立の側面がどうしても強い
ということです。
クライアントは「資産」であると主張し、監査法人は「費用」であると主張する。
クライアントは「100」でオンバラ(注:オンバランス=貸借対照表に載せること)すべきと主張し、監査法人は「10」でオンバラすべきと主張する。
正しいものを正しいと主張し、誤っているものを誤りだと主張する。
客観的かつ公正な立場から、中立的な目線でもって監査判断を下す。
このことには、何らの反論もないし、むしろ監査人(注:会計士のこと)としてあるべき姿だとも思います。
その結果、世の中に流通する財務諸表には、監査人による数値としての信頼性が担保されることになります。
つまり、会計士がお墨付きを与えた財務諸表だけが市場に流通していきます。
監査論では、監査の目的は財務諸表にお墨付きを与えて利害関係者を保護することを最初に学びます。
利害関係者の代表格は投資家です。
私は考えました。
私は監査を通じて、本当に投資家を保護したいと、心の底から思っているのか、と。
クライアントと対立して、疲弊するまで身を粉にして働く監査人。
会社の財務諸表を当然のものとして(=監査人に感謝をすることもなく)利用し、巨額の利益を稼ぐ投資家。
私の人生は、投資家を保護するという目的のためだけに、一生を捧げる価値があるのか?
結局、監査はお金持ちによるお金儲けの手段のために利用されているだけではないのか? と。
加えて、このタイミングで私はロバート・キヨサキ氏が執筆した「金持ち父さん貧乏父さん」を読んでいました。
そこで、更に衝撃を受けることになりました。
氏は、世の中の収入の発生形態には4つあることを提唱していました。
Eクワドラント | Employee(従業員・サラリーマン) |
Sクワドラント | Self-employed(自営業) |
Bクワドラント |
Business-owner(ビジネスオーナー) |
Iクワドラント | Investor(投資家) |
これを分かりやすく、図式化すると下記のようになります。
公認会計士に限定すると、収入の4つの形態は下記の通りになります。
少しずつ、資本主義の縮図が見えてきました。
監査法人における会計士は組織のために働く従業員であって、投資家を保護するという監査の目的が大義名分であるということに気付きました。
組織のために働くとは、組織の責任者たるパートナー(注:取締役のイメージ)のために働くことを意味するのだ、と。
なるほど、監査はパートナーを保護するためにあるのだ、と。
だから、お金の出し手にも関わらず、クライアントから直接感謝されることが少なかったのだ、と。
そして幸か不幸か、この2008年から四半期レビューが制度化されました。
これまで年2回の往査(注:現場に行くこと)だったのが、年4回になるという制度への移行期でした。
クライアントと対立する構図が年に4回、10年で40回。。。
目的はパートナーの保護のため。
別にKPMGのパートナーが嫌いと言う訳ではありませんでした。
しかし、ずっとは続けられない。
本当に自由な身になるためには、まずはE(従業員)クワドラントから出る必要がある。
私はそのように考えました。
松本翔からのコメント
偽らざるホンネによる私自身の思いの丈を綴っているので、他の会計士とは目線が少し違うかもしれません。
本当に大切なことや物事の重要な本質は誰も教えてくれません。
資本主義の観点から全体を俯瞰して初めて気づいた社会の縮図と違和感でした。
まさに「エウレカ」が起きた瞬間でした。
これまでの常識を覆す思考の「コペルニクス的転回」により、これ以降、物事の見え方が激変しました。
また、時代というのは生きていて、常に動いている、ということを実感したのもこの時からです。
いざ、独立の準備へ
ビジネスオーナーになるほどのビジネス力が、監査法人で養成されるはずもありません。
そこで、私はE(従業員)クワドラントからS(自営業)クワドラントへの転身を決断しました。
つまり、独立開業です。
税務業務であれば、経営者と対立することはありません。
同じ目線で、クライアントのために仕事がしたい。
同じベクトルで、経営者の右腕になれるような仕事をしたい。
と思うようになりました。
そのためには、監査法人を出て独立する必要がありました。
とは言え、すぐに独立できるだけの下地がないことは明らかでした。
そこで私は退職までの期間を2年と定め、この間にやるべきことをリスト化しました。
たくさんリストアップしましたが、代表的な活動は下記の3つです。
税務を勉強する。
FP資格(AFPとCFP)を取得する。
人脈やネットワークを広げる。
目的となる資格の取得を達成し(詳細はこちらを)、周到に独立のための準備をしてきました。
松本翔からのコメント
人脈やネットワークについては、正直、あまり意味がなかったです。
成功している起業家ほど、人脈が大切だとは言いません。
素晴らしい仕事をしていれば、自然に人的ネットワークが構成されるからです。
最初から作ろうとしなくても、後から気づけば自然に出来上がっているからです。
人間関係は今や選択する時代に入っています。
鬱陶しい人や、苦手な人からは距離を置けばいいし、一緒にいて成長を感じない友人からは離れても良いと私は思っています。
わざわざ付き合う価値がありません。
私は一匹オオカミよろしく、群れるのは個々が弱者だからだ、という考えを有しています。
サラリーマンの悩みの大半が人間関係に起因しますから、サムライ資格を保有してまで普通のサラリーマンと同じステージで悩む必要はないと思います。
独立をすると、邪魔くさい人間関係を切ることが簡単にできます。
社会人の方であれば、「人間関係から解放されたい!」という動機付けで会計士試験を目指すのもありだと思います。
そして2010年7月末に、私はお世話になったKPMGを退職することにしました。
価値のある組織に属するのか、価値のある自分になるのか、それが問題だ。(BY 松本 翔)
私は後者の道を選ぶことにしました。
「松本翔ver.3.0」時代(独立から経済的自由を手にするまで)
独立をして感じた社会に対する違和感
2010年8月に会計事務所を立ち上げ、9月に株式会社を設立しました。
そしてこのタイミングでLECの非常勤講師として舞い戻ってくることが出来ました。
KPMGを退職する準備をしていた2009年頃から、「辞めたら是非会計士講座に戻って来て下さい。」と当時の責任者から言われていました。
前述した、「自分の可能性に懸ける」ということで、「こうなるんだ!」という状況は自ら作り出せる。
いつか必ず帰ってくる。
このことを実現できました。
独立当初は、講師業務と税務業務を中心に幅広く手掛けていました。
税務業務については、経営者の右腕になる、という一心で取り組んでいました。
自分が経営者を全力でサポートする。
経営者と同じ目線や同じベクトルで、同じ夢を見たい。
と思っていました。
しかし、この想いは無残に桜の如く舞い散る結果となりました。
大きな転機となったのが、独立して2年ほど経った2012年のことです。
当時、クライアントの拡大を優先するあまり、休む間もなく仕事を続けていました。
監査法人しか知らない世界から外に出て約2年。
次第に、世の中の仕組みがよく分かるようになりました。
そのタイミングで私の目の前に大きな2つの壁が立ちはだかりました。
1.中小企業の壁
2.健康の壁
という2つの壁です。
1.中小企業の壁
世の中には300万社から400万社近い会社があると言われています。
監査法人時代は、その中でも3,000社から4,000社、全体のわずか0.1%に相当する上場企業を中心に監査をしていました。
だから、気づかなかったんです。
クライアントや会社の中の人の意識や能力のレベルが高いことに。
高いレベルの会計士と、高いレベルのクライアントの中で仕事をするのが、当たり前でしたから。
99.9%の中小企業の中にも、もちろん優秀な経営者や従業員、優れた技術を開発している会社もたくさんあります。
しかし、全ての中小企業がそういう訳ではありません。
・約束を平気で反故にする経営者(決まった時間に来ない、決まった期日に所定の金額を支払わない等)
・自分さえ何とかなれば、他人はどうでも良いと思う経営者
・詐欺等、反社会的な行為に近いことをやってでも利益を得ようとする経営者
・設立わずか3か月後に蒸発して連絡が取れなくなる経営者 など。
私が思うほど、中小企業の経営者の質が高くないことに気付きました。
当初は、経営者の右腕になりたい、と思っていましたが、次第に「このような経営者の右腕になって、一体どうするんだ?」と思うようになりました。
本当にこれが自分のやりたいことなのか?
私は独立における大義名分を失ってしまいました。
そこから迷走する日々が始まりました。
2012年夏の頃です。
そして、それに追い打ちをかけるように襲来した2つ目の障壁が私を待ち構えていました。
2.健康の壁
税務の仕事は、漫画家の仕事によく似ています。
週刊誌に連載する漫画家のように、日々、締め切りに追われるのです。
税務の場合は、提出期限を1日でも過ぎると、書類は効力を有しません。
期限後の申告という取扱いになり、税務上の優遇((いわゆる「青色申告者」としての税金控除)などは受けられなくなります。
期日は如何なる理由があろうとも絶対厳守なのです。
当時、たくさんの税務クライアントを抱えていた私は、「何としても期日までに申告書を作成・提出しなければ」という極度のプレッシャーに追われていました。
恐らく、この働き方が自分には向いていなかったのだと思います。
半年近く、深刻な体調不良に陥りました。
LECの通学講義で、講義中に吐血して休講になったのもこの時です。
クラス中が、変なざわつきを見せたことを今でも覚えています。
女性の受講生から「先生、ホントに死んじゃうから講義止めましょう。」と言われたことが印象に残っています。
そしてその後、あまりの精神的・身体的負担から私は、「帯状疱疹(たいじょうほうしん)」という病気まで患いました。
帯状疱疹とは、大人版の水ぼうそうみたいなものです。
幼少期にかかった水ぼうそうのウイルスが死滅しておらず、大人になった際に発症し、痛みを伴う皮膚症状が現れます。
私の身体(お腹)には今でも帯状疱疹の痕が残っています。
病院で診察を受けた時、お医者さんから言われた一言が衝撃的でした。
医者「あー、これね、帯状疱疹だよ。通常は50代で発症することが多いよ。松本さんいくつだっけ? 31? あー、これはね、働き方を見直さないといけないよ。このままだと過労で死んじゃうよ。」
これは結構ショックでした。
短期間に2人から「死んじゃうよ。」って言われるなんて。
今にして思えば、2012年は人生の大きなターニングポイントでした。
何よりも、「レバレッジの効かない労働には未来がない」ということを私に示してくれました。
松本翔からのコメント
思えば、幼稚園の半分は体調不良で休んでいたほど、小さい頃から病弱でした。
かかりつけのお医者さんからは、「江戸時代なら、もうとっくに死んでる。」って言われていました。
もしかしたら、潜在的に過酷な労働に身を置く環境を身体が無意識のうちに排除しようとしていたのかも知れません。
当時、私は下図の左下、S(自営業)クワドラントに属していました。
収入は労働時間に比例していました。
Y(収入)、X(労働時間)、時給10,000円だとするなら
Y=10,000X
のような算式で表されます。
働けば働くほど、収入は増えるが、その分、自分の時間を削ることになる。
つまり、「時間の切り売り」という形態の仕事しかしていませんでした。
時間は有限だから、この形態での収入には一定の上限があります。
しかも身体を壊した途端に、収入が0になる。
私はこの時、独立の最大のリスクが「健康リスク」であることに気付きました。
不健康な自分を前にして、現状を変える手立てを早急に用意する必要性に迫られました。
この時、「一人働き方改革」として、実行に移したことが3つあります。
@ | 拡大路線だった税務業務を縮小する。 |
A | やりがいを感じる講師業務に、より注力していく。 |
B | 自分が働かなくても収入が形成されるような仕組みを作る。(仕組みに働いてもらう仕組みを作る。) |
@ 拡大路線だった税務業務を縮小する。
これはもう命に関わる問題です。
応援したくない経営者との税務契約をどんどん解消していきました。
締め切りに追われ、心身が疲弊する生活なんて、まっぴらごめんです。
A やりがいを感じる講師業務に、より注力していく。
少し長くなります。
当時感じた率直な想いを綴っていきます。
これまで経験してきた監査と税務について、私は下記のような限界を感じていました。
監査(建前)⇒投資家の保護のため⇒保護したいと思えない×
監査(本音)⇒パートナーのため⇒他者のために身を粉にして働きたいとは思えない×
税務⇒経営者のため⇒事業が怪しい or 人として信頼できない人が多く、協力したいとは思えない×
中でも個人的に一番深刻だと思ったのは、税務の時に感じた経営者の質の低さです。
ここからはかなり辛辣な意見になります。
不快に感じる方はどうぞご退出下さい。
私には日本人の下位8割を救済できる力がないことが分かりました。
「こうした方が良いよ。」「ああした方が良いよ。」
色々なアドバイスを経営者にしましたが、レベルの低い人ほど人の意見を聞きません。
私のアドバイスを無視した結果、状況が悪化しても、強行させなかった私が悪いかのような意味不明な論調を展開し始めます。
被害妄想が強く、他力本願。
自分ではロクに行動もせずに、文句ばかり。
ねじれの位置のような関係性であり、正直、私とは住む世界が違うことを痛感しました。
世の中の平均的なサラリーマンの半分以上が、毎月全く自己研鑽をしていない有り様。
以前、12年間勤務して手取り月給14万円を理由に「日本終わってますよね?」とネットに投稿した人がいました。
この投稿に、ホリエモンがツイッターで「日本がおわってんじゃなくて『お前』がおわってんだよwww」と呟いて炎上したことがありました。
この呟きの適否はともかく、私には、このネットに投稿した人を公認会計士にさせることは出来ません。
この投稿内容からして、まず不可能だからです。
他力本願などではなく、何とか自助努力で今の閉鎖的な状況を打破したい!
この意識と意志を有している時点で、そもそも日本人の上位2割に位置します。
私が手を差し伸べることで成果が生まれる、或いは、私が手を差し伸べたいと思えるターゲット層は完全にこの上位2割の層です。
上位2割と下位8割の線引きはめちゃくちゃ簡単です。
この記事をここまで読めているかどうかで判断できます。
大学生で授業に出席せずバイト三昧&サークル三昧、「やっぱ大学って最高だね。」って言っている凡庸な人には、この記事は長すぎて読めません。
社会人でも上述した通り、半分のサラリーマンには自己研鑽の意識がないわけですから、そもそもこのホームページにたどり着く余地がありません。
家帰って、ぼーっとテレビ見て、何も考えずにチャンネル登録したYouTuberの動画を見て、ネットフリックスで映画やドラマを見て、お菓子食べてお酒やジュースを飲みながらアニメや漫画に没頭する。
こんな日々の繰り返しで、人生が彩り豊かになる訳ないじゃないですか。
やりたいことが見つかる訳ないじゃないですか。
先の手取り月収14万の人に
「自己研鑽をして、しっかりと勉強をすれば未来は変わりますよ。」
なんて言っても、
「こいつクソワロタwww勉強なんてやる意味あると思ってんの?そんなのいいから金貸してくれよ。」
みたいな返答が予想されます。
ムダなんですよ。
人生を自分で変える気のない人にアドバイスしたって。
反面、上位2割の層であれば、公認会計士の資格に挑戦するかは別としても、「何かを変えなきゃ。」とか「このままではマズイ。」という危機感は常に持っています。
自分を導いてくれる人や講座、コース、セミナー、書籍などに対しては、お金を払ってでも学びたい!
との意欲があります。
そして、会計士講座を申し込んでいる受講生は、まさにこの意欲とマインドを持っています。
だから、当然合格もするし、合格後も自分のステージをどんどん上げていっています。
つまり、有料講座に申し込むレベルの意欲とマインドを有する受講生を対象にして、彼ら彼女らが成長し結果を出してくれる様子を講師として見届けるのが、私が講師を続ける最大のモチベーションになっています。
教育は高くつくと言うなら、無知はもっと高くつく
とはベンジャミン・フランクリンの名言ですが、まさにその通りだと思います。
私には、上位2割をより上位にするための貢献はできますし、これが私に課せられた天命だと思っています。
長くなりましたので、まとめます。
監査(建前)⇒投資家の保護のため⇒お金持ちを保護したいと思えない×
監査(本音)⇒パートナーのため⇒他者のために身を粉にして働きたいとは思えない×
税務⇒経営者のため⇒事業が怪しい or 人として信頼できない人が多く、協力したいとは思えない×
講師⇒受講生のため⇒自助努力で人生を切り開く姿勢に共感でき、心から応援&協力したいと思える○
これが、やりがいを感じる講師業務に、より注力していくとした理由です。
松本翔からのコメント
当時感じた率直な想いを綴った分、辛辣な記述になってしまったことをご容赦下さい。
今では少し考え方が変わっています。
変わるきっかけを提供すれば、誰でも変わる可能性がある。
と今では思っています。
上位とか下位とか関係なしに、です。
「あぁ、こんな世界があるんだ。」
「へー、実はこんな魅力やメリットがあったんだ。」
ということを単に知らなかっただけであって、自分にとって未開拓の地があることを知れば、冒険する動機付けが生まれる可能性もあります。
「やってみようかな。」という気にもなります。
昔の自分は、「知らないこと自体が問題だ。」とか、「知らないものを知ろうとしないマインドが問題だ。」って思っていました。
でもそれは、今の時代には酷だというものです。
2012年の時とは状況が全く異なります。
SNSを中心に個人の意見が濫立する現在では、有象無象の情報があまりにも多すぎるのです。
情報が氾濫し、洪水のように押し寄せてくる中で正確な情報を掴むことは、情報を選別する訓練をしない限り、なかなか難しいのが現状です。
だから、知らないのは単に個人の問題であるとは一概には言えなくなりました。
「ちょっと始めてみようかな。」と思っても会計士の勉強は独学ではまず不可能です。
かと言って、いきなり予備校の何十万円もするコースに申し込む勇気もない。
そういう人にこそ、少額の予算で始められるアカ凸で会計士の勉強を始めて欲しいと思っています。
「変わるきっかけ」というのは、いつも時代も「些細な一歩」から始まります。
アカ凸の理念は「すべての人にワンチャンを。」です。
B 自分が働かなくても収入が形成されるような仕組みを作る。(仕組みに働いてもらう仕組みを作る。)
S(自営業)クワドラントは自分の好きな講師の仕事を中心に担うことにし、収入形態を右側のB(経営者)とかI(投資家)のクワドラントに求めていくことにしました。
それぞれのクワドラントにおいて、一番重要な行動指針をまとめると下記の通りになります。
S(自営業)のクワドラントは「自立」(何でも自分でやる!)
B(経営者)のクワドラントは「自由」(好きなことをやる!)
I(投資家)のクワドラントは「自律」(コントロールできることをやる!)
講師業はやりたいことや好きなことではありましたが、この時点では「経営」とは結び付きませんでした。
そうなると、まだビジネスシステムを構築するほどに「これをやりたい!」と思えるビジネスはありませんでした。
なので、まずは「経営」ではなく、「投資」による収入の複線化を目指すことにしました。
自立から自律へ
投資はリスクマネジメントが一番大切なファクターです。
大半の投資においては、想定されるリスクをコントロールする術が存在します。
株式投資ならロスカット(損切り)のルールを決めることでコントロールできますし、不動産投資なら想定される損害は保険に加入することでカバーできます。
安く買って、高く売る。
その際に生じるリスクはマネジメントによりコントロールする。
だたそれだけです。
その意味において、投資とは本来、大変ロジカル(論理的)なものです。
投資をして感情的になる場合、(例えば「頼む、値上がりしてくれ!」みたいな場合)、それは投資ではなく投機(ギャンブル)です。
ここら辺のお話に興味がある方は、こちらで説明しています。
さて、2012年の大きな病気を契機に、私は最もリスクマネジメントがしやすい「不動産投資」の勉強を始めることにしました。
不動産投資の素晴らしい所は、関係する人すべてがハッピーになれるところです。
銀行から融資を受けて、空室だらけの物件を購入し、リフォームやリノベーションを通じて、入居付けしていく。
これにより、
銀行は貸付による利子を享受できます。
リフォーム会社は受注により利益を得ることができます。
入居者には快適な居住空間を提供することができます。
不動産の管理会社には、日々の管理業務(家賃の回収や清掃等)をお願いすることで、地域の雇用に貢献できます。
市区町村には、固定資産税を納めることで税収にも貢献できますし、入居者が増えることで地域経済の活性化にも寄与できます。
不動産投資家は、フリーキャッシュフローを手にできます。
まさに「六方良し」です。誰も損しません。
クライアントとの対立がイヤで監査法人を離れた私としては、win-winの構図となる不動産投資は、願ったり叶ったりでした。
2012年の秋から1年ほど、不動産投資を本格的に勉強しました。
200万円以上のお金をかけて、とにかく勉強しまくりました。
そして2013年12月に最初の物件を購入し、以後、2棟、3棟、4棟・・・と投資規模を拡大していきました。
2016年の時点で投資総額は6億円以上、家賃収入で8,000万円以上になり、私は不動産投資から経済的自由を達成しました。
I(投資家)クワドラントを通じて、時間と空間とお金に働いてもらう仕組みを作れたことは大きかったです。
松本翔からのコメント
何のために働くのか?
やりがいとかお金とかクライアントのためとか自己重要感を満たすためとか、そういったことを抜きにすると、私はこう答えます。
将来、働かなくても良い状況を作るために働く。 と。
働かなくても良い状況を作ってのんびり南の島でセミリタイアするために、じゃないです。
こんなことやっていると人間が腐ります。
全く成長もしないので、人としてダメになります。
そうじゃないです。
働かなくても良い状況を作った上で、好きなことを仕事にして、また働く。
そのために、今働くのです。
「Y=10,000X」の発想しかなかった頃の自分には思いつかなかったことでしょう。
今やシステムを上手く活用することにより個人レベルの労働ですら、簡単に仕組化することができます。
毎年、同じことをやっていてはダメです。
不動産投資である必要はないと思いますが、何らかの形で仕組化に繋げていく必要はあると思います。
働かなくても良い状況を作った「松本翔ver.3.0」から、いよいよ好きなことを仕事にする「松本翔ver.4.0」へ。
長かった松本ヒストリーも間もなく完結します。
「松本翔ver.4.0」時代(そして現在・・・)
KPMG時代に感じた劣等感
今でも鮮明に記憶に残っています。
私が上京してKPMGに入社した時のことです。
東京の監査法人では、同僚や先輩の能力レベルが高かったことを覚えていますが、それ以上に衝撃的だったことがあります。それは、
両親が社会的・経済的な成功者であること
でした。
・親が大企業の幹部をしている。
・親が監査法人のパートナーをしている。
・親が中小企業の経営者をしている。
・大学病院で医局長をしている。
・親の仕事の関係で世界中に生活拠点がある。
・幼少期からマルチリンガルとして育ってきた。
などなど。
挙げだすと枚挙にいとまがありませんが、本人はもとより、親が社会的・経済的な成功者であるということに大変なショックを受けました。
親の世帯年収と子供の学歴は比例する。
と言われますが、この歴然たる事実を痛感することになりました。
私には父親はいません。
会社の退職と同時に、退職金を持って家族の前から姿を消しました。
生きているのか死んでいるのか、それすら私は知りません。
そんな元父親は中卒です。
経済的な家庭環境は「下の上か、よくて中の下」ぐらいでした。
ver.1.0でも言及しましたが、お金がないから東京への進学を断念した過去があります。
会計士試験に合格した時、大原に通っていましたが、なぜ通っていたと思いますか?
簿記1級の時に通っていたから?
いいえ、違います。
大原の会計士講座が0円で受講できたからです。
当時、大学内でやっていた簿記コンテストというものに優勝したんですが、その優勝賞品が現金15万円と大原の特待生チケットだったのです。
お金がなかった私には行動の選択肢がありませんでした。
だから、KPMGに入社した時に感じましたよ。
強烈な劣等感を。
子供は親を選べません。
誰だって、親ガチャがあれば「SSR」を引きたいと思っているはずです。
少なくても大学に進学するまでは、親の経済状況に子は相当程度依存します。
親の価値観や行動様式に子は相当程度影響を受けます。
私がアカ凸を立ち上げた理由
今の時代、経済的に困窮している状況から成り上がるためには「知力」か「影響力」が必須です。
これは絶対に必要です。
知力や影響力はマネタイズ(お金に換えること)が出来るからです。
松本翔からのコメント
知力によるマネタイズとは?
時給1,000円のフリーターと時給10,000円の医者。
医者は知力を駆使してフリーターの10倍の速度で労働力をマネタイズできます。
影響力によるマネタイズとは?
チャンネル登録者100人のYouTuberと1,000,000人のYouTuber。
後者のYouTuberは影響力を駆使して、企業案件や広告収入を通じたマネタイズが可能です。
現代におけるお金の錬金術は「資力」「知力」「影響力」の3つです。
資力(必要な資金を出せる力)は、生まれながらにして貧富の差があります。
残酷なまでに不平等であり、自分以外の環境(親の年収や職業、資産状況等)による影響を少なからず受けます。
一方で、「知力」や「影響力」は「個」に依存しますし、基本的にスタート地点はフラットです。
ちなみに影響力を履き違えると、とてもイタイ人になるので注意が必要です。
車内の窓を開けて大音量で音楽を流す人や、SNSへのバカッターなどがその典型です。
なお、影響力については、他者が本人に対して感じるものなので、若くして自力で養成することはできません。
経済的、社会的に成功した人が必然的に影響力を持つようになる、というのが順序的には正しいかもしれません。
経済的、社会的に成功する前に若くして影響力を持つ人としては、インフルエンサーや大学のミスコン候補者
などが挙げられます。
彼女たちのツイッターやインスタには影響力があります。
こういった影響力を持つのは、大半が若い女性(それも顔出しが条件)です。
若い男性が「影響力」を武器に成り上がることは、アイドルにでもならない限りまず不可能です。
つまり、現実的に「影響力」をマネタイズできる人は限定されます。
となると、99%の人が成り上がるためには「知力」が不可欠だということになります。
影響力は自力で養成することはできませんが、知力は自力で養成することが可能です。
何よりも、知力は人や組織と違って裏切りません。
学べば学んだだけ、見える世界が変わっていきます。
どんどん思考が豊かになっていきます。
先ほど、親の世帯年収と子供の学歴は比例する。
と言及しましたが、これは
高い教育を受けるには、高いお金を払うことが必要である。
との昔の前提があります。
今やネットでほとんどすべてが完結する時代です。
だから私は考えました。
親の経済状況に依存することなく、会計士試験に合格できるだけの知力を養成するオンラインの学校を作れないだろうか? と。
高度な教育を低価格で提供する。
これにより、経済的、社会的に成功したいと思うすべての人にチャンスが到来するような受講環境を整備できないだろうか? と。
これが、私がアカ凸を立ち上げることにした最大の理由です。
私自身が経済的に恵まれなかっただけに、同じような環境から下克上を狙う受験生が赤の他人だとは思えません。
加えて、私自身が公認会計士として、同じ業界を志してくれる受験生が赤の他人だともやはり思えません。
最後に・・・
経営は夢の追求でしかないんですから、最後は。
これは、私が多大なる影響を受けたアメリカ人実業家、ジェームス・スキナーの言葉です。
2012年にセミナーを通じて初めてこの言葉を聞いた時に、私は思いました。
「経営っていうのは、戦略が一番重要なんだよ。経営学を学んでいないジェームスは何も分かっていないな。」 と。
経営というのは、戦略こそが最重要ファクターであり、緻密な戦略を構築し、人材を組織化した上で、上手くマネジメントする。
これこそが経営である。
当時の私は思っていました。
今になって気づかされます。
何も分かっていないのは、私の方でした。
・グーグルのラリー・ペイジ
・アマゾンのジェフ・ベゾス
・マイクロソフトのビルゲイツ
・フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ
・ユニクロの柳井社長
・ソフトバンクの孫社長
・元ライブドアの堀江社長 などなど。
1000億円を遥かに超える資産を有する世界トップレベルの億万長者です。
彼らがなぜ、経営の第一線から退かないのか。
末代まで働かなくても一生遊んで暮らせるお金があるはずなのに。
彼らは、恐らくこれからも経営の第一線を走り続けることでしょう。
経営は夢の追求でしかないんですから、最後は。
ジェームスの言葉は間違っていませんでした。
成功者たちは本当にやりたいことをやり続けているんです。
お金のことを考えずに、本当に情熱をかけることが出来るビジネスに注力することが一番幸せなんです。
色々経験してきた今となっては、(彼らの見えているステージには遠く及びませんが)この気持ちが少しだけ分かる気がします。
では。
私が情熱をかけて行いたいことって何だろう?
と考えてみました。
・経済的に「持たざる者」でも挑戦でき、結果を残せる仕組みや環境を用意すること。
・私の理念や考え方に共感してくれる仲間とともに成長していくこと。
・自助努力で現状を変えたいと願う人のサポートをすること。
・公認会計士の素晴らしさを社会の人に認知してもらい、受験者数の底上げに寄与すること。
・公認会計士が多方面で活躍できるような下地作りに貢献すること。
・自分で自分を雇用し、好きな場所で好きな人と好きな仕事ができるような「自由人会計士」を養成すること。
そして、何よりも
・アカ凸の受講を通じて、会計士試験の合格者をたくさん輩出すること。
・日本一の会計士受験講師として、受験生目線から合格に直結する講義を展開すること!
こういった情熱が今の私のモチベーションになっています。
私は自らの人生を出し惜しみするつもりは全くありません。
常に「挑戦」し続けていきます!
あなたの将来は、あなたの過去の延長線上である必要はない。
とは『7つの習慣』の著者、スティーブン・コヴィー博士の名言です。
人は誰しも人生という名の長い旅路の途中(=過去)に、「落とし物」があると思っています。
私の場合、それは、
大学受験の失敗かも知れません。
会計士論文受験の挫折かも知れません。
淡い失恋かも知れません。
破綻してしまった人間関係かも知れません。
挑戦しなかったことによる後悔かも知れません。
ラクな道を選んでしまったことによる自責の念かも知れません。
大切な人の期待を裏切ってしまった罪悪感かも知れません。
自分には無理だと思い込んでいた劣等感かも知れません。
ずっと気掛かりで、ふとしたことで記憶が蘇る過去の「落とし物」に当時の自分の残像が重なります。
「あぁ、なんであんなことをしてしまったんだろう。」
「どうしてチャレンジしなかったんだろう。」 と。
こういった想いを打破する方法はたった一つ。
あの時よりも圧倒的に成長するしかないんです。
精神的にも身体的にも社会的にも経済的にも人格的にも。
あの頃の弱かった過去の自分と決別し、更なる高みを目指していく。
こうすることでしか納得させることが出来ません、自分自身を。
会計士試験は過去の自分と決別し、次なるステージへと進む道しるべでもあります。
受験資格要件はありません。
誰でも受験可能です。
10歳の女の子や80歳のおばあちゃんでも受験可能です。
中卒のおっちゃんや外国籍の兄ちゃんでも受験可能です。
人生はいつだってリスタートを切れます。
私がそうであったように。
私は20歳からもう一度、人生をやり直せるとしても間違いなく公認会計士を目指します。
本当に取得して良かったと、心の底から思っているからです。
私はこれからも挑戦し続けていきますし、夢を追求し続けます。
小学生の時から大人が嫌いな私でしたが、大人になった私が今度は、小学生から羨望の眼差しを向けられるような存在になります。
唯一無二である自由人の象徴的な存在になります。
圧倒的なカリスマ性で受講生を合格へ牽引していきます。
新たな挑戦の末、誕生したアカ凸と松本翔を今後ともどうぞよろしくお願いします。
本当に長くなりましたが、最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
アカ凸講師 公認会計士 松本 翔